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コンドルの系譜 ~インカの魂の物語~

第七話 黄金の雷(7)

逆転十字 6-5

【 第七話 黄金の雷(7) 】

一方、その頃、インカ軍の本陣では、トゥパク・アマルが深い苦悩の淵にいた。

既に、時は深夜。

秋近い夜の月は天頂を通り過ぎ、厚い雲の中でゆっくりと傾きながら、落ちていく。

今、月は雲に隠れ、その色は見えない。

トゥパク・アマルは、本来は己の屋敷であるその場所の一階に構えたインカ軍指令本部にいたが、既に、何日も前から、書斎以外の二階の私的な空間に戻ることはなくなっていた。

今、二階の奥の間には、堅く守られるようにしてトゥパク・アマルの子どもたちが初陣に疲れて眠りに落ち、夫婦の寝室には、妻ミカエラが一人で眠る。

トゥパク・アマルは、一階の本部で昼夜なく働く兵たちに、交替して休息をとるよう促し、側近たちもそれぞれの天幕に戻して休ませると、己自身は、本部内の一隅の椅子に座った。

一見、平素と変らぬ様子で、澱(よど)み無く兵たちに指示を送り続けるトゥパク・アマルの横顔には、しかし、今は非常に深い苦悩の翳(かげ)りが宿っている。

硬く握り締められた褐色の拳は、無意識のうちに、あまりに激しく力を込められすぎているためであろう、不規則に震えていた。

(フランシスコ殿…――!

ああ…一体、いずこに、おられるのか…。

いや、それ以前に、そのお命の安否さえ、全く分からぬとは……)

トゥパク・アマルの切れ長の目は、もはや激しく案ずる色を通り越して、むしろ苦悶の気配を湛えながら、暗黒の夜闇に縁取られた窓辺へと、幾度と無く、その視線を走らせる。

他の側近たちが各々の寝所に戻っても、常にトゥパク・アマルを影のごとくに護衛するビルカパサは、この夜も自分の天幕に戻ることなく、本部の入り口近くの椅子に腰掛け、主(あるじ)の方に、じっと視線を注ぐ。

そんな二人に、本部で働くインカ兵たちが、恭しく礼を払いながら通り過ぎ、それぞれの任務を交替で続けている。

夜明けと共に再開される次なる戦闘こそが、いよいよ此度の反乱の最終決戦となるやもしれぬ…――!!

兵たちの間に緊張と気迫が漲る。

今度こそ、必ず決着を着けてやる!!

スペイン討伐軍を蹴散らし、ついに植民地支配を瓦解させ、真の自由を手にするのだ!!

彼らにとってはインカ皇帝そのものであるトゥパク・アマルの存在を、こうして、今、とても身近に体感し、インカ兵たちの意気は、むしろ盛んであった。

敵の火器の威力の程度は既に知るところとなり、己たちもそれに見合う火器での応酬を為し得ている、と、昼間の合戦で既に手応えも得ていた。

かのフィゲロアの死は痛ましい出来事ではあったが、彼の率いていた「リマの褐色兵」の大軍勢は、今やインカ軍の陣営内で、同志として、共に夜明けを待っている。

さらに、各地でスペイン側の支配を押さえ込み、インカ側の統治下に入った地域の義勇兵たちが、援軍として続々と当地に到着してきてもいた。

インカ軍本部の兵たちも、野営場のインカ兵たちも、その心に希望を宿しながら日の出の時を待ち侘びる。

しかしながら、相変わらず表面上は全く平素と変わらぬ沈着な表情をしたトゥパク・アマルの、その心の中心には、今は、深い影が射し、激しい心痛が渦巻き続ける。

(フランシスコ殿…――!!)

万一にもフランシスコが負傷にて倒れてはいまいかと、ディエゴの指令のもと、戦場周辺一帯をつぶさに捜索したものの、結局、フランシスコの痕跡は全く掴むことができなかった。

戦場に累々と横たわる死体は、砲弾や銃、刃物などによって、よもや見る影も無く、人と判別することさえ難儀の惨状。

しかも、夜間ともなれば、その死体の個人を特定することなど至難極まりないことである。

トゥパク・アマルは、司令本部の一隅で、椅子に座ったまま、瞼を閉じた。

夜明けの決戦に備え、仮眠をとっておかねばならない。

その閉じた瞼が、小刻みに震える。

そんなトゥパク・アマルの姿を、遠目から、じっとビルカパサが見守った。

月はさらに下に傾き、夜闇の空間を支配していた秋の虫たちの声を打ち破るようにして、明け方の鳥たちの甲高い声が遠く響きはじめた。

トゥパク・アマルの微かに宙に放たれかけた意識は、フランシスコへの強度の心配の情に繋がれたまま、すぐに己の体の中に引き戻される。

彼は、ゆっくり目を開けた。

そして、やや身を屈(かが)め、額に褐色の指を添えたまま、苦しげな眼差しで床に目を落とした。

(フランシスコ殿…本当に、一体、どこにおられるのか…。

もしも、敵に囚われているとしたら、今頃、いかなる目に合わされていることか…!

これまでも、スペイン側に囚われたインカ兵たちは、皆、過酷な拷問を受けて惨殺されている。

ましてや、わたしの重側近であるとなれば、課せられる仕打ちは、いかほどに激しいものであろうか…――!!)

床に向けられたトゥパク・アマルの漆黒の瞳が、苦渋に揺れる。

他者が激しい苦痛を蒙(こうむ)っていると想像することは、彼にとっては、己がそれを蒙るよりも、よほど辛いことであった。

異界の門 1

(その上、今のフランシスコ殿は、過去の戦闘による癒えぬ心的外傷を抱えたままであり、まだ正常な心理状態ではない。

そのような状態で、過重な訊問や拷問が加えられれば、人格崩壊か、果ては、狂死か…――!!)

トゥパク・アマルの全身を、電撃のように震撼が走り抜けた。

しかし、このような時であればこそ、なおのこと懸命に冷静な思考を手繰り寄せようと、トゥパク・アマルは、現在の状況を、再び、全体をなぞるように思い返してみる。

(…――だが、フランシスコ殿が、もし敵の手中に落ち、捕虜とされているならば、人質を得た敵軍から、降伏なり、わたしの身柄なり、何らかの要求が出されてきてもよい頃だ。

なのに、それも無いとは。

では…どこに?

考えたくも無いことだが、まさか…本当に戦死などと……!!)

逆転十字 6-5 小

トゥパク・アマルは、いっそう深く身を屈めて、その手で両瞼を押さえ込んだ。

(フランシスコ殿、そなたのそれほどまでに切迫した気持ち、結局、わたしは少しも分かってなどいなかったのだ…!

今となっては、どれほど悔んでも遅すぎる…――!!)

そんなトゥパク・アマルを少し離れた場所から見守るビルカパサの目には、深い懸念の色が強まる。

(トゥパク・アマル様!

一人の人間への情へ縛られることへの危険、それは、トゥパク・アマル様自身が、当然のように認識し、これまで容易(たやす)く振り解(ほど)いてきたことではありませぬか。

なのに、今回ばかりは、ご様子があまりに違う…!)

ビルカパサは、非常に鋭い目でトゥパク・アマルを見据えた。

(トゥパク・アマル様にとって、フランシスコ殿は、ご学友でもあり、最も初期からの同志でもあり、義兄弟の契りさえ交わした大切なお方であったことは良く分かっております。

しかし、トゥパク・アマル様…――今は、比類なき重要な時。

どうかお目を覚まされよ!!)

ビルカパサは眉を顰(しか)め、まるでトゥパク・アマルに訴えるがごとくに、心の中で叫ぶ。

何年にも渡ってトゥパク・アマルを護衛し続けてきた彼のその眼差しは、厳然たる鋭さと共に、包み込むような深い守護者の色を強める。

そんな彼の視線の先で、突如、トゥパク・アマルが、はじかれたように椅子から立ち上がった。

その勢いで、椅子が激しい音を発しながら横倒しになった。

周囲の兵たちも、驚いた目で、皆、そちらを振り向く。

一方、トゥパク・アマルは、倒れた椅子もそのままに、何かを探すように周囲を見回している。

ビルカパサは、俊敏に立ち上がり、トゥパク・アマルの傍に寄った。

「トゥパク・アマル様、何か?」

「いや……」

トゥパク・アマルは、どこか落ち着かぬ面持ちで、目線だけで周囲を鋭く見渡しながら、「フランシスコ殿の声がしたような…!」と、低く言う。

ビルカパサは訝しげに、そして、労(いた)わるようにトゥパク・アマルを見た。

それから、その逞しい右腕で、床に倒れた椅子を素早く元の状態に戻しながら、静かに言う。

「トゥパク・アマル様、自分には、何も聞こえませんでしたが」

「うむ…」

壊れた時計 1・青・小

トゥパク・アマルは曖昧に返事をすると、深く考え込むような目をして、それから、何を思ってか、部屋の出口の方に歩みはじめた。

「トゥパク・アマル様?

もう少し仮眠をとられませんと、明朝の決戦がお辛くなりましょう」

「ありがとう、ビルカパサ。

しかし、少し歩いてきたい」

そのままドアに向かっていくトゥパク・アマルを、ビルカパサが、すかさず追う。

「では、自分もお供いたしましょう」

「そなたこそ、少しは休んでいなさい」

そう言いながら、ドアをゆっくり開けるトゥパク・アマルの姿に、ドア向こうで警護に当たっていたインカ兵が、深く頭を下げて礼を払った。

トゥパク・アマルも礼を払い返し、長い廊下の先端の方に視線を向けた。

その瞬間、彼の横顔に、突然、大きな驚きと強い光が射した。

トゥパク・アマルの表情の変化に気付いたビルカパサは、すぐにトゥパク・アマルの視線の先を追う。

なんと、そこには、館の廊下をこちらに歩み来るフランシスコの姿があるではないか…――!!

トゥパク・アマルとビルカパサが深い驚きの表情で見守る中、一方、フランシスコもトゥパク・アマルの姿を認め、一瞬、ビクリと身を縮め、その歩みを止めた。

ビルカパサの冷静な目は、そのフランシスコの反応の不自然さを瞬時に掴み取る。

本来のトゥパク・アマルなら、なおのこと、あまりに容易(たやす)くとらえられるはずのもの。

ビルカパサは、サッとトゥパク・アマルの横顔に視線を走らせる。

だが、今のトゥパク・アマルは、フランシスコの様子の不自然さよりも、その無事な姿への安堵と歓喜に、意識を完全に支配されていた。

トゥパク・アマルの姿を前にして、固まったように歩みを止めていたフランシスコのその姿は、かなり憔悴してはいたが、何らかの乱暴を加えられた痕跡もなく、また、とりわけ負傷を負っているわけでもない。

(それだけでも、かえって、明らかに不自然ではないか…!!)

ビルカパサは、もちろん、フランシスコの無事な帰還を喜ぶ気持ちを大いに持って、深く安堵してはいたが、その冷静な思考は、彼に幾多の疑問を投げかける。

その間にも、トゥパク・アマルは、一直線にフランシスコのもとに歩み寄った。

そして、感極まった声で言う。

「フランシスコ殿、ご無事で…――!!」

「トゥパク・アマル様、ご心配をおかけいたしました」

消え入りそうな声で、フランシスコが応える。

その表情は、帰還できた喜びよりも、何かに怯えているがごとくにオドオドとして、非常に頼りなげである。

ビルカパサは、足早に二人の間に歩み寄った。

彼は、「フランシスコ殿、ご無事で何よりでございました」と、まずは深く礼を払ってから、「今までどこにいらしたのですか。探したのですよ」と、真っ直ぐに問う。

フランシスコのやつれ切った顔面が、明らかに引きつる。

「詳しい事情は、後ほどお話しいたします」と、ビルカパサの視線から逃がれるように言うと、「それより、トゥパク・アマル様、どうしてもお目にかけたきものがございます」と、縋(すが)るようにトゥパク・アマルを見上げた。

「わたしに見せたきものとは?」

今や深き安堵の念に包まれ、トゥパク・アマルが穏やかに問う。

「それは…、館の裏口にお持ちしておりますれば、直接、お目にかけたく……。

まずは、トゥパク・アマル様だけに、お目にかけたきものなのです」

フランシスコは、そう恐る恐る言うと、ちらりとビルカパサに視線を走らせ、再び、トゥパク・アマルの方を縋るような目で見据えた。

ビルカパサは、その表情に訝しむ色を敢えて浮かべて、「トゥパク・アマル様だけに?」と、いかにも不審気に問い返す。

トゥパク・アマルも、さすがに少々不審気な色をその目に浮かべた。

そんなトゥパク・アマルの目の色の変化に、フランシスコは慄(おのの)くようにその瞳を揺らし、蒼白な顔面からは既に脂汗を滲ませ、呼吸を荒げながら、搾り出すように言う。

「事情は、後ほど詳しくお話しいたします。

火急のことなのです。

何卒、トゥパク・アマル様の御身一つにて、わたしと共にご同行くださいませ」

そう言って、いっそう縋り付くようにトゥパク・アマルを見上げる。

その表情は、明らかに必死の色を帯びている。

ビルカパサは、もう、完全に、不審そのものの面持ちになっている。

一方、トゥパク・アマルは、暫し、じっとフランシスコを見下ろしていた。

その眼差しには、感情が見えない。

フランシスコの言うこと、その様子、いずれもが明らかに奇妙であることは、もはや言を待たなかった。

既に冷静さを取り戻したトゥパク・アマルは、無言のまま、静かにその目を細める。

フランシスコは、涙を滲ませはじめた怯え切った目元に、まるで断崖絶壁に立ち尽くしているがごとくの必死さを浮かべ、ただただトゥパク・アマルを見上げている。

「トゥパク・アマル様、どうか、お聞き入れください。

どうか…!!

ご一緒に……」

「フランシスコ殿、そなた…――」

絶望からの光 1

もはや常と変らぬ沈着な声音に戻っているトゥパク・アマルの言葉を遮るように、フランシスコが今までとは異なる鋭い口調で言葉を放った。

「トゥパク・アマル様!!

どうか、100のうち1つでも、わたしの言葉をお聞き入れくださいませ…!!

これほど、あなた様のことだけを、考え続けてきた、このわたしの言葉を……!

あの若き神学校時代から今日まで、わたしがどれほどあなた様を深く敬愛し、お慕い申し上げてきたことか…。

その思いを、あなた様は、結局は理解なさることはなかった。

あなた様は、どの者にも優しく、温和に接せられるが、所詮は、一人一人の人間など見てはいないのだ!!

義兄弟にまで引き立ててくださった、このわたしのことでさえ、本当には目を向けてはいなかった。

あなた様は、一人の人間の心になど……!!」

「フランシスコ殿!

トゥパク・アマル様の御前で、あなた様は、一体、何を言っているのかお分かりか!!」

ビルカパサが語気荒く、すかさず言葉を挟むのを、だが、今のフランシスコはキッパリとそれを無視して退ける。

「トゥパク・アマル様!!

あまりにも深く敬愛すればこそ、あなた様にお見捨てになられたくないと…――わたしが、いかに必死だったか…!!

まるで暗がりを這いずり回る思いでいたことを…――、あなた様は、どれほど分かっていらしたか?!」

フランシスコの目元からは、滔々(とうとう)と涙が溢れ、今やトゥパク・アマルの瞳を貫くような彼の眼差しは、その言葉が全くの本心であることを激しく訴えていた。

他方、トゥパク・アマルは、切れ長の目を静かに伏せるように細めながら、ただ黙って、涙に歪んだフランシスコの顔を見つめている。

暫しの沈黙が流れた。

息を詰めて二人を見守るビルカパサには、フランシスコのそれは、どのような言葉で飾ろうとも、自己愛的な一つの執着の形にすぎぬ、と、トゥパク・アマルの湖面のように静寂な横顔は、そっと語っているように見えた。

実際、トゥパク・アマルの思いは、ビルカパサが読み抜いたがごとくであったかもしれない。

しかし、同時に、フランシスコが、今、真に己の言葉で、その心を真っ直ぐに投げてよこしてきたことを、トゥパク・アマルは重く受け留めていた。

その眼前で、フランシスコは、いよいよ涙にむせびながら言う。

「トゥパク・アマル様…どうか、どうか、このわたしの言葉を、お聞き入れくださいませ……」

「フランシスコ殿」

トゥパク・アマルは、相手の全てをその懐(ふところ)に無条件に受け入れるかのような、あの常のごとくの包み込む眼差しで、ゆっくりと頷いた。

「わかった。

そなたが、それほどまでに申すのであれば、そなたの見せたきものを見せてもらおう」

mild moon 1

瞬間、はじかれたように、フランシスコはトゥパク・アマルの瞳に釘付けられた。

トゥパク・アマルの眼差しと言葉は、「そなたを信じる」という、そのメッセージそのままであったのだ。

フランシスコの瞳が大きく揺れる。

その面差しに応えるように、「よく話してくれたね」と、トゥパク・アマルが真摯な声で言う。

「まもなく開戦の支度に入らねばならぬ。

そなたの用を先に済まそうか」

トゥパク・アマルはそう言い残すと、フランシスコが申し出た通りに、館の裏口に向かって歩みはじめた。

一方、言い出したはずのフランシスコが、今度は戸惑いの色をありありと浮かべながら、先刻にも増してオロオロとしながらも、トゥパク・アマルの後を追う。

「お待ちください!!」

ビルカパサが、血相を変えて走り出す。

「トゥパク・アマル様!!

お待ちください!!」

ビルカパサがひどく困惑した表情で、二人の後を追いかける。

それを、トゥパク・アマルが瞬時に制した。

「そなたは、ここで待っていなさい。

今は、フランシスコ殿と二人で参る」

「しかし……!!」

ビルカパサは激しい不吉な予感に憑かれたまま、しかしながら、トゥパク・アマルの静かな口調の裏に流れる有無を言わさぬ無言の圧力に、足を止めざるをえない。

「ビルカパサ…そなたは、常に、まるで、わたしの分身のごとくであった。

そなた無しでは、わたしは、数多(あまた)の命があっても足りなかったであろう。

そなたには、昔から、いつも心配ばかりかけている。

すまぬ…。

だが、此度は案ずるな。

すぐに戻る」

そのトゥパク・アマルの言葉に、ビルカパサは言葉を失って立ち尽くす。

彼は、館の裏口の方に消える二人の姿を、すっかり血の気の引く思いで、呆然と見送った。



一方、まるで倒れるのではないか、と思われるほどにフランシスコの足取りは頼りなく、時々、惑うように足を止めては、何かを吹っ切るようにして再びよろけながら歩み出す。

時折、廊下をすれ違うインカ兵たちが、不審そうな目でフランシスコを見るが、平素と変わらぬ沈着な様子でその前を歩むトゥパク・アマルの姿を認めると、その姿に恭しく礼を払い、何も疑わずに過ぎ去っていく。

そのまま館の裏口のドアに着く。

時刻は、まだ早朝3時半を回るか否かという頃。

館の内も外も、多くは深い眠りの中にあった。

静けさの中、フランシスコが、まるで震えるような手つきで裏口のドアを開ける。

ドアの軋(きし)む音が、不気味に響く。

トゥパク・アマルは、そのドアが次第に開くのを、じっと見つめていた。

ドアの隙間から、まだ薄暗い戸外の空の色が覗く。

まるで何かに憑かれたように朦朧とした危うい眼差しで、フランシスコはこちらを見上げ、言葉も出ぬのか、無言のまま、トゥパク・アマルをドアの外へと促す。

トゥパク・アマルは、ゆっくりとした足取りで、しかし、周囲の気配に神経を研ぎ澄ませながらドアをすり抜け、裏庭へと出た。

そして、瞬時に、その場の気配の異常を察知する。

空気がおかしい…――!!

トゥパク・アマルが俊敏に見渡す視界の中で、館の裏手を警護していたはずのインカ兵たちが、幾人も地に伏している姿が目に飛び込んだ。

その身から流れる真紅の血で大地を染めながら、息絶えている兵たち!!

トゥパク・アマルが全ての事態を察した瞬間には、彼の全身に真っ黒い捕獲網(あみ)が、頭からバッサリと投げかけられていた。

「――!!!」

陰謀の罠

トゥパク・アマルを捕えた網の先端を、ドア陰に身を潜めていた複数のスペイン兵たちが、緊張と興奮とで目を炯炯と光らせながら握っている。

網に捕われたまま、カッと目を見開いたトゥパク・アマルの前で、突如、我に返ったがごとくに、フランシスコが愕然として、地にへたりこんだ。

トゥパク・アマルは、瞬間、止まったその動きを即座に切り返し、もはや完全に状況を見切った非常に険しい表情になると、目にも留まらぬ速さで腰からサーベルを抜き取り、己に絡みつく網を激しく切り裂きはじめた。

頑強なはずの網の目が、みるみる切り裂かれていくさまに、スペイン兵たちがギョッとして後退(あとずさ)る。

「何をしている!!

新たな網をかけよ!!

さっさと縛り、捕えるのだ!!」

この卑劣な陰謀の首謀者、かのアレッチェが、怒声を上げながら草陰から姿を現した。

スペイン兵たちはアレッチェの鬼のような剣幕に気圧され、危うい手つきで慌てて新たな捕獲網を放つと、縄を取り出し、数人がかりでトゥパク・アマルに向かっていく。

トゥパク・アマルは二重の網にも怯まず、あの修羅のごとくの形相をして、雄叫びを上げながら、その豪腕な剣を振り翳(かざ)し、なおも綱を切り裂いていく。

その気迫の凄まじさに圧倒されたスペイン兵たちが、縄を手にしたまま近寄れずにいると、苛立ったアレッチェが銃口をトゥパク・アマルの頭部に向けながら、迫り来る。

そして、トゥパク・アマルの気迫に怯むスペイン兵たちを、氷のごとくの眼で突き刺すように睨み付けた。

「はやくしろ!!

他の敵兵どもに感づかれるであろう!!」

一方、トゥパク・アマルは剣を振りながら、俊敏に、フランシスコの方に視線を投げた。

己の為してしまった恐るべき所業に、驚愕し、腰を抜かしているフランシスコの目に、トゥパク・アマルは、鋭くも、力強く頷く。

そして、まるで相手を勇気づけるかのごとくに、その眼差しで、しかと合図を送った。

(フランシスコ殿!!

即刻、指令本部に戻り、事態を兵たちに知らせよ!!)

フランシスコは、はじかれたように立ち上がり、冷水を浴びたような、今、やっと目覚めたような眼になると、トゥパク・アマルの合図にガクガクと頷き、踵を返して、館内の司令本部に戻ろうと裏口のドアに走った。

が、次の瞬間、アレッチェの銃は、ドアに手をかけたフランシスコの頭部を撃ち抜いた。

氷のような銃声が、夜闇を切り裂き、こだまする。

「フランシスコ殿――!!」

血飛沫を上げながら銃弾に倒れるフランシスコの姿に、愕然とトゥパク・アマルの動きが止まる。

その一瞬の間に、たちまちスペイン兵たちが一斉に襲いかかり、トゥパク・アマルの全身に縄を固く巻き付けた。

二重の頑強な捕獲網の上から、さらに太い縄を幾重にも巻かれては、さすがに強靭な肉体を持つトゥパク・アマルとて、もはや身動きを取ることは不可能である。

その状態を即座に見て取ると、アレッチェは鋭い目線で合図を送り、捕えたトゥパク・アマルを引き立てる兵たちと共に、脱兎のごとく草地の方に走りはじめた。

だが、アレッチェの放った銃声に瞬時に反応したビルカパサが、間髪入れず、裏口のドアから飛び出してきた。

ビルカパサの視界の中に、捕われ、拉致されていく、主(あるじ)の姿がはっきりと映る。

彼は狂ったような雄叫びを上げ、遠くのインカ兵たちへ合図を送るがごとくに天高く咆哮すると、己の剣を握り締め、走り去るアレッチェたち一団に向かって猛進していく。

が、そのビルカパサめがけて、草陰に潜んでいた複数のスペイン兵たちから、一斉に銃弾が放たれた。

超人的に研ぎ澄まされた心眼を鍛え上げているビルカパサは、殆ど、奇跡的なほどの俊敏さで、傍らの大木にその身を隠し、銃弾を逃れた。

しかし、その間に、たちまち連れ去られるトゥパク・アマルの姿に、降り注がれる銃弾の嵐の中、なす術も無く見送るしかない己の不甲斐無さに打ちひしがれていた。

stream 2

「トゥパク・アマル様――!!!」

やりきれずに叫びを上げるビルカパサの方に、事態を察して数十名のインカ兵が馳せ参じた。

だが、その頃には、トゥパク・アマルの姿は、既にスペイン軍の陣営の中に消えていた。



ビルカパサは、混乱を食い止めるために、トゥパク・アマルが連れ去られたことについて決して口外してはならぬと、現場を目撃した兵たちに固く口止めしたものの、もはや非常なる興奮と大いなる困惑の渦に巻き込まれた兵たちの口を封じることは不可能だった。

かくして、トゥパク・アマルがスペイン兵に捕われたという噂は、たちまちインカ軍に広がった。

そして、トゥパク・アマルの側近たちも、また、ビルカパサの報告を受けて、計り知れぬ衝撃と驚愕の中にあった。

ディエゴは血走った眼で、筋肉の塊のごとくに巨大な拳を額に当てたまま、先刻から固まったように仁王立ちになっている。

まさか、トゥパク・アマル様が捕われたなどと…――?!!

そんなディエゴらの傍らで、ビルカパサは机に覆いかぶさるようにして、地に沈むほどに深く頭を垂れていた。

「私がお傍についていながら、このようなことに…――!!

ああ……!!!」

彼の指の爪先からは、あまりに強く押し付けられているがために、机上を真紅に染めるほどに鮮血が滲み出している。

突っ伏したまま激しく打ち震えるその肩を、インカ軍参謀オルティゴーサの岩のような手が、支えるようにガッチリと握り締めた。

衝撃の蒼 1

他方、その場で打ちひしがれていたのは、厳(いかめ)しい男たちだけではなかった。

トゥパク・アマルの妻ミカエラも、ビルカパサの報告に己の耳を疑ったまま、愕然と硬直していた。

あれほどに普段は気丈なミカエラが、今は、血の気を失い、まるでそのまま床に崩れ落ちそうになっているのを、老練の重臣ベルムデスが素早く支える。

「ミカエラ様、どうかお気をしっかりお持ちなさいませ!」

ミカエラは、その細くしなやなか指で顔を覆いながら、ベルムデスに促されるままに、傍の椅子に崩れるようにその身を沈めた。

ディエゴは昂(たか)ぶる己の心を懸命に鎮めながら、ミカエラの脇に寄った。

ミカエラは、顔面を覆った指の間から、微かにディエゴの方に視線を動かす。

一方、ディエゴは、その巨体を床に跪き、座したミカエラの目の高さに己の目線を合わせると、天地が反転したがごとくの衝撃と混乱に震えるミカエラの瞳に、力強く頷いた。

そして、どっしりと太く、沈着な声音をつくって言う。

「ミカエラ様、どうか、ご案じなさるな!

トゥパク・アマル様は、必ずや、我々が救出いたします!!」

彼自身も激烈な衝撃の渦中にあるに相違ないのに、己の感情を統制し、自分への気遣いまで見せるディエゴの姿に、どれほど動揺しながらも周りは見えているミカエラは、深く感じ入って、顔を上げた。

そして、何とか己を取り戻そうと、彼女も懸命に自分を律しながら応える。

「そうですね。

このような時こそ、わたくしたちがしっかりしなくては……!」

その声は、まだ強い衝撃の余韻を引き摺(ず)り、上擦(うわず)ってはいたものの、目には、早くも、凛とした光が甦りつつあった。

ディエゴは、再び、深く頷き返す。

「その通りです、ミカエラ様。

そして、万一の時のために、ミカエラ様は、即刻、こちらを立ち退(の)かれるご準備をなさってください。

ご子息様たちと共に、ここを去るご準備を!!」

言い含めるように言うディエゴを、ミカエラは挑むように見返す。

「万一の時…――?」

この期に及んでは、なおのこと、万一の時など考えられぬ!!

負けるなど、絶対にあってはならぬこと…――!!

必ずや勝利し、夫トゥパク・アマルを奪還し、インカの民の独立を果たさねば!!

ミカエラの恐ろしいほどに険しくなった瞳は、そう強く訴えながら、これまで以上の焔を燃え上がらせている。

ディエゴは跪いたまま、ミカエラの方にその巨体を乗り出した。

そして、真正面から、彼女の激しい表情を見据える。

「わかっております。

ミカエラ様のお言葉は、トゥパク・アマル様のお言葉でもありましょう。

ですが、この自分には、トゥパク・アマル様に代わって、あなた様やご子息様たちのお命を確実に守る義務があるのです!!」

有無を言わさぬ鬼気迫る厳しさで直近までディエゴに迫られながら、それでも、ミカエラは、まだ、あの挑むような険しい眼(まなこ)で相手を見返している。

氷月花 2

「ディエゴ殿!!」

「ミカエラ様」

ディエゴは、きっぱりとミカエラの言葉を制し、太く、低く、噛み含めるように言う。

「ミカエラ様。

もはや、トゥパク・アマル様が囚われたことを、インカ軍の殆どの兵たちは知ってしまっております。

兵たちが、どれほどトゥパク・アマル様を深く敬愛していたか、一番、よく存じているのはミカエラ様でありましょう!!

そんな兵たちのこと…もはや、正気を失うほどに猛り狂い、興奮しており、味方とはいえ、何を仕出かすかも分からぬ状態なのです。

常軌を逸した集団が戦(いくさ)に臨む、その危険は、ミカエラ様ならば、重々お分かりになるはず。

まさに、敵が狙っているのは、そこなのです。

トゥパク・アマル様を捕えた、敵の戦略…――それは、我が軍の自滅を狙ってのことでありましょう!!」

「ディエゴ殿…――」

遠征中のトゥパク・アマルに代わって、反乱幕開け以来、このトゥンガスカのインカ軍本陣を統率してきたミカエラは、これまでの戦況を見てくる中で、既に集団心理にも精通していた。

不意に思慮深い眼差しになったミカエラの表情に、ディエゴは、再び、深く頷き返す。

「ミカエラ様、あくまで、万一の時として、お聞きください。

万一、我々が此度の決戦で敗れれば、トゥパク・アマル様が囚われた今、敵が次に狙ってくるのは、あなた様と、そして、ご子息様たちでありましょう。

この決戦に勝てればそれで良いが…。

ですが、申し上げたごとくの最悪の事態に備えておくことも、今の状況では必要かと……!」

これまで見たことも無いほどの険しく真剣なディエゴの面持ちを、ミカエラは、その女神像のように美しい目を、いっそう鋭く細めて見つめていたが、やがて目を伏せるようにして、頷いた。

「わかりました…。

息子たちと共に、わたくしも、立ち退(の)く準備をいたします……」

その声音は、押し込めきれぬ激しい苦渋に満ちている。

血が滲むほどに、きつく噛み締めたミカエラの唇が、明らかに震えている。

ディエゴも非常に苦しげな面差しで、しかし、「そのように…ミカエラ様」と、深く礼を払った。



一方、ミカエラは、再び、真っ直ぐにディエゴを見つめ、そして、問う。

「トゥパクのいない今、この後のインカ軍本隊の総指揮を執るのは、あなたですね?

ディエゴ殿」

ミカエラの眼差しは、まだ苦渋に満ちてはいたが、それでも、彼女の声には冷静さと真摯さが甦りつつあった。

ディエゴは彼女の前に跪いたまま、再度、深く頭を下げて恭順の礼を払う。

「はっ!!

ミカエラ様、この命に代えても!!」

ミカエラも、誠意をこめた力強い眼差しで、ディエゴに深く礼を払い返した。

「しかと頼みましたよ。

ディエゴ殿!!」

それから、彼女は、椅子からすっくと立ち上がった。

絶世の美貌に雄々しいほどの凛々しさを備え、端正な長身の肢体を持つミカエラは、そこに存在しているだけで、常に、まるで戦の女神の光臨のごとくである。

百合 (縦・左・1)

しかも、その彼女の輝きは、単に外面的な要素にとどまらぬ、その内奥から湧き上がるような、インカの地と民への絶対的な博愛に裏付けられていた。

トゥパク・アマルとミカエラ・バスティーダス…――二人は、夫婦であり、息子たちの両親であると共に、インカへのゆるぎなき愛という固い絆で結ばれた、互いにとって最大の同志でもあったのだ。

今、そのミカエラは、己とディエゴとのやり取りを息詰めて見守っていたトゥパク・アマルの側近たち全体を見渡し、それぞれの者の目をしっかりと見つめて頷き、礼を払った。

そして、いつもトゥパク・アマルがそうしていたのと同じように、彼女も、その涼やかな麗しい目元に包み込むような包容力と慈愛を湛え、毅然と言う。

「トゥパクは死んだわけではありません。

きっと、我々の戦いぶりを見守っているはず。

今こそ、心を一つに合わせるとき!!

しかと頼みましたよ」

「はっ!!」

側近たちが、ミカエラの前に恭順の意を示し、深々と礼を払う。

そんな側近たちの姿を見届けると、ミカエラはもう一度深く頷き、それから、敏捷な足取りで息子たちのいる二階へと姿を消した。



それと時を合わせるように、インカ兵たちが開戦の準備を進める野営場の方から、激しくどよめく声が上がった。

ディエゴらが瞬時にそちらに視線を返すと、スペイン軍の騎兵たちが、砂塵を上げながらインカ軍の陣営めがけて奇襲をかけてくるところであった。

「――!!」

目を見開くディエゴの脇で、ビルカパサとオルティゴーサが、すかさず声を上げる。

「ディエゴ様、すぐに応戦を!!

あなた様が、全軍の指揮を!!」

ディエゴは頷く間も惜しむ勢いで、戸外に走り出ると逞しい黒馬に飛び乗った。

襲い来る敵兵たちに向かって、他の側近たちも、それぞれの連隊めがけて指揮を執るべく疾走する。

しかしながら、トゥパク・アマルを奪い去られたインカ軍の兵たちは、まさにディエゴの予測通り、既に、完全に暴徒のごとくに化していた。

彼らは、もはや当初の作戦も何も完全に忘れ去ったままに、ディエゴ及び他の側近たちの指揮など到底及ばぬ凄まじい獰猛さで、怒涛のようにスペイン兵めがけて押し寄せていく。

まるで狂気を帯びたがごとくのインカ兵たちに、スペイン兵たちは情け容赦なく砲弾を放ち、インカ兵たちを大量に吹き飛ばした。

しかし、砲弾によって空けられた空隙には、みるみる次のインカ兵たちが押し寄せ、その空間をたちまち埋めてしまう。

そこに再び砲弾が打ち込まれ、だが、すぐさまその空間はインカ兵によって埋められる。

もはや、その地獄絵のような果てしなき繰り返しが、延々と続くばかりである。

インカ軍の兵たちは、その数だけは、無尽蔵なほどに多かった。

本来の専門兵たちを遥かに凌ぐ数万規模の義勇兵たち…――その多くの者は、植民地支配の瓦解とインカの復権を賭けて、敬慕するトゥパク・アマルの元に各地から馳せ参じてきた貧しい農民たちである。

今や、囚われた彼らのインカ皇帝トゥパク・アマル奪還に向けて、「トゥパク・アマル様!!」と、その名を叫びながら、己の命のことなど完全に忘れて猪突猛進するインカ兵たち。

無数のインカ兵が砲弾と銃弾の嵐に倒れ、それでも、生き延びた者たちは、再び狂気のような雄叫びを上げながら、棍棒や戦斧を手にスペイン兵に襲いかかっていく。

インカの死闘

そうしたインカ兵たちがスペイン軍に与えた損傷は、決して侮れるものではなかった。

とはいえ、やはりこの時点に至っても火器の威力では圧倒的に勝り、且つまた、ついにトゥパク・アマルを捕えて優位にあるスペイン軍の攻撃は、がむしゃらに暴徒化したインカ兵たちとは対照的に冷静であった。

アレッチェの指揮のもと、奇襲をかけて混乱を煽(あお)った後、敢えて自軍の領域に懐深く誘い込むようにしながら着実に狙い撃ち、ジワジワと、そして、確実に、インカ軍を制圧していく。



◆◇◆ここまでお読みくださり、誠にありがとうございました。続きは、フリーページ第七話 黄金の雷(8)をご覧ください。◆◇◆









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